歩む会 妙見演習林便り

歩む会の活動を掲示します。

歩む会4月の行事:南海電鉄煉瓦造暗渠群・狭山池博物館

R.03.04.07          参加者3名 

 昨年9月18日「大阪狭山市域の南海電鉄煉瓦造暗渠群」が「土木学会土木遺産」に認定された。明治31年(1898)高野鉄道を河内長野まで延長した際、通路や水路を通すため7つの暗渠が設置されたが、周辺の開発が進むも利用価値があり今日まで残ってきた。 

 南海電鉄狭山駅10時集合、線路脇に植えられたサクラは散り始めていた。駅前から線路東側の坂道を下ると1号暗渠(第40号拱渠・径間2.44m)がある。狭山池からの水路は暗渠の地下を通り東側にある太満池に通じている。建設時の暗渠は入り口・通路壁面・アーチ形の天井共レンガ造りであったが、東側は昭和12年高野線の複線化で下り線側を拡張した為その部分はコンクリ-ト構造になっている。 

 通路を潜り、線路西側から本来の姿を眺める。引き返し、高野線の東側の畦道を南下すると2号暗渠(第41号拱渠・径間3.05m)がある。水路は通路脇の溝が通っている。今度は西側の住宅地を通り池尻第8公園を過ぎると3号暗渠(狭山跡道暗渠・径間3.66m)がある。こちらも水路は脇の溝である。トンネルは1~2号に比べ高さがある。

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 南下して住宅横の駐車場奥に4号暗渠(第42号拱渠・径間1.52m)水路のみで高さも低く、金網で覆われ通行出来ない。さらに住宅地を南下すると直ぐ府道203(富田林狭山線)と合流、5号暗渠(狭山里道架道橋・径間6.10m)はトラックも通行可能。暗渠の煉瓦壁に煉瓦造暗渠群管理者の南海電鉄の「土木学会選奨土木遺産」銘板が掛かっている。

 線路の東側に移り住宅地内を南下、畑の畦道を通り6号暗渠(第43号拱渠・径間2.44m)水路があり天井は低い。元に戻り南下すると府道198(河内長野美原線)と合流南下。

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 高野線沿いに更に南下、東除川に突き当たる。この7号暗渠(東除川暗渠・径間3.6m)は「ねじりまんぽ」(まんぽ=トンネルの古語)狭山池から流れる東除川を通すための暗渠で、線路に対して斜めにアーチをかける為、レンガを捩じって積んだもので日本には25ケ所しか残っていない(大阪狭山市商工会 MAPより)。歩む会の行事でH29.11.23琵琶湖疏水沿いを歩いた際、蹴上のインクラインを潜る「ねじりまんぽ」があった。

 ここから狭山池に向かって西進、東除川に架かる「さやまばし」を通り狭山池の堤へ上がる。生駒山地金剛山地紀伊山地六甲山地等見渡せる。残念ながら堤の桜並木の花は散っていた。 

 堤上で昼食後府立狭山池博物館に入場。博物館は2001年開館、建物はコンクリート打ちっ放しし、安藤忠雄さんの設計である。狭山池は東樋に使用されたコウヤマキの年輪年代測定で推古天皇24年(616年)の築造と判明。飛鳥時代の堤防は中国・朝鮮半島から伝わった小枝を並べた上に土を盛る敷葉工法をしている。その後奈良時代天平3年(731年)行基が改修、天平宝字6年(762)朝廷による改修、13mの樋管を繋いだ。鎌倉時代建仁元年(1202)重源は樋管に石棺を使って改修。慶長13年(1608)豊臣秀頼の命を受けた片桐且元により東樋・中樋・西樋・木製枠工の大改修を行った。 

 昭和57年8月の台風10号の大雨で大災害が起こった。これが契機で昭和63年(1988)~平成13年(2002)=平成の大改修が行なわれた。池底を3m深くし、堤防を1.1m高くした。その結果貯水量が180万㌧から280万㌧と増加し治水力が増加した。堤の断面模型には改修時期別にランプで表示される。改修毎に堤が高くなっているのが判る。 

博物館の常設展示:①高さ15m・幅約60mの堤の断面を移築展示、➁飛鳥時代の下層東菅(重文)、江戸時代の上層東樋(重文)、③奈良時代の下層東樋(重文)、④重源狭山池改修碑(重文)、⑤江戸時代の中樋(重文)、木製枠工、西樋取水部材(重文)、⑥取水塔の移築、⑦平成の改修・現在の洪水調整機能と役割の解説がある。

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 特別展示は撮影禁止のため、展示内容を含めた全記録は下記参照:

  https://issuu.com/csuisei/docs/__3_4_______________________

(KT記)

 

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