歩む会 妙見演習林便り

歩む会の活動を掲示します。

歩む会11月行事2:堺の歴史探訪

R02.11.19    参加者 3名

 10時南海電鉄本線堺駅南口集合、駅前の神明神社天保3年(1832)の創建だが現在蘇鉄山山岳会が置かれ、一等三角点で日本一低い山蘇鉄山の登山認定書があり交付して頂く。国道26号線を渡り、旧堺港の南にある大浜公園にはいる。明治12年(1879)に開園、明治36年第5回内国勧業博覧会の会場となった。嘗ては東洋一の水族館・公会堂・潮湯・海水浴場など有数のレジャ-地だったが、今は面影がない。

 前後したが、蘇鉄山に無事登頂、周囲は樹木で360°展望は望めなかった。麓には擁護璽(ヨウゴジ・安政地震記念碑)がある。安政元年(1854)11月5日南海地震で夜に大津波があり大阪で2000人の死者、堺でも57人の死者があった。その時の避難方法の教訓の記述と神明神社開口神社・菅原神社へのお礼が碑文に記されている。旧堺港の歩道を西進、突端に位置する旧堺燈台は明治10年(1877)建築された。六角錘形の木造燈台で現地に現存する最古の燈台で国の史跡に指定されている。

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 旧堺港の対岸に龍女神像があり、指さす方向は約1.8km先の市役所か。元々大浜公園にあり撤去されたが平成12年堺市市制110周年を記念して復元設置された。堅川水門前に戦国時代の堺の貿易商人、呂宋助左衛門(納屋)像がある。水門を過ぎ堅川の左岸を進むと、幕末の頃の二つの事件の舞台がある。文久3年(1863)8月、天誅組は京都を出発、淀川を下って大阪から海路、堺のこの地に上陸し、大和へ向かって五条代官所を襲撃した。また、慶応4年(1868)2月無通告でこの付近に上陸した、フランスの兵士11名を、当時堺の警護に当たっていた土佐藩士が殺傷する事件が起きた。フランス政府の要求で、土佐藩士は妙国寺切腹した。

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 堅川左岸を進むと内川・土居川の合流点となり下流が堅川と呼ばれる。内川と土居川は堺環濠都市遺跡の西北を内川、西南・南を土居川、東は阪神高速道路で囲まれた内側にあった。土居川に沿って南下、途中から左折し路面電車の走る大道筋紀州街道)に面する、歌人与謝野晶子生家跡、駿河屋の三女に生まれたが現在は歌碑のみが残る。国道26号線沿いに宿院頓宮がある。摂津国一之宮の住吉大社和泉国一之宮の大鳥大社の頓宮。毎年7月31日大鳥大社・8月1日住吉大社から神輿を迎え、境内西側にある飯匙堀(イイカイボリ=海幸山幸の神話に登場する潮干珠を埋めた)で「荒和大祓神事」が行われる。

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 境内のベンチで昼食後堺山之口商店街を北上、この商店街は嘗て明治時代から昭和時代にかけて堺や大阪東南部の中心地として栄えたが、南海電鉄堺東駅前に市役所などの行政や金融機関、大型商業施設が集中するようになって寂れた。今は人通りも少なく、空き店舗が目立つ状態。開口神社は社伝では神功皇后三韓征伐の帰途、塩土老翁神を祀るべしとの勅願で創建。また行基により念仏寺も建立された。明治時代には境内に堺市役所・三国丘高校・泉陽高校などが置かれた。大小路は摂津国和泉国の境であり、大道筋紀州街道)の交差点は竹内街道の起点。日本で最古の官道であり敷設1400年の平成25年10月歩む会では奈良県葛城市の長尾神社から竹ノ内峠を通り歩いたことがある。

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 菅原神社は社伝では長徳3年(997)菅原道真が配流先の大宰府で彫られ海へ放された七天神の一つが、堺の浜に打ち上げられた神体を天神社に祀り創建したという。隋身門は慶安5年(1652)建立。延宝5年(1677)堺の鉄砲鍛冶、榎並屋勘左衛門の寄進によって仁王門が造営されたという、大阪府有形文化財
時期外れの暑さもありここから南海高野線堺東駅へ向かう。北部の鉄砲鍛冶関連、河口慧海関連の場所は今後の課題として本日の行事は終了。堺市の今日の最高気温は27.5℃で観測史上最も遅い夏日だった。

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(KT記)

 

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