歩む会 妙見演習林便り

歩む会の活動を掲示します。

妙見里山を巡る歴史風土散策-続き

 西曲輪跡から少し下り、上り返すと緩やかな道となり、黒川への分岐。平坦な道となり高代寺境内に入ると彼方此方に地蔵尊がある。五輪塔を過ぎると立派な鉄檻があり2014年に山中で捕獲されたツキノワグマが保護飼育されているが既に冬眠中のようだった。最近日本各地でクマの被害が続出していることに思いを馳せる。高代寺薬師院(庫裏)・鐘楼、旧参道に沿って造られた十二町石がある、石英閃緑岩で慶安3年(1650)に作られているが麓の発掘され、再設置された一町石との明瞭差は大きすぎるような気がする。境内にはタラヨウ(樹齢1050年)・コウヤマキ(樹齢1050年)など巨木が多い。良寛歌碑がある。本堂に向かう階段途中に享保年間から文化年間に建てられた宝篋印塔がある。本堂・聖天堂(不動堂)に参詣、昼食休憩。今朝の天気予報では12時から降雨見込みであり、今のところ降雨はないが、当初予定通り最短距離の表参道町石を観察しながら下ることにする。

f:id:aramah:20201029093520j:plain f:id:aramah:20201029093558j:plain f:id:aramah:20201029093732j:plain

     五輪塔            薬師院(庫裏)          十二町石

・高代寺:平安時代(810年頃)に空海が草庵を結んだことに始まる。諸国歴訪の旅の途中,宝基山(高代寺の旧名称)に登り、山頂近くにこんこんと湧く泉「閼伽井神泉(あかいしんせん)」を見つけ、薬師如来を祀り、瑠璃光院という草庵を結んだと高代寺日記や梵鐘に記録されている。
 960年源満仲が大伽藍を建立した。四代目源頼仲が1069高代寺を再興した。この頃が高代寺の最盛期である。寺領は七郷・千二百石に及び、37の伽藍、12の僧房を数えたが、その後衰退する。
 良寛が諸国を巡る道中、高代寺に訪れた時に詠んだ句「津の国の 高野の奥の 古寺に 杉のしずくを ききあかしつつ」が記されている。

  境内本堂より横路に至るところに五輪塔数基が並ぶ。向かって一番右側の五輪塔は、源仲頼の塔と伝えられている。南北朝時代(1354)の造立。町内には中世の五輪塔は少なく、南北朝の年代のものはこの塔のみである。閼伽井御神泉は今も湧いておりタンクに貯めている。広い道から表参道への山道を下る(標高430m)。距離は短いが階段状の石があり膝を痛めているKは片足づつ下っている。程なく妙見里山倶楽部高代寺実習地。この倶楽部は大阪自然環境保全協会の修了生の活動拠点であり、嘗て上光が谷里山実習地で活動していたが土地所有者の都合で1998年現在地に移転した。

f:id:aramah:20201029095055j:plain f:id:aramah:20201029093852j:plain f:id:aramah:20201029093935j:plain

     高代寺本堂           閼伽井神泉          妙見里山倶楽部

 高代寺は高野山の代わりの寺院として呼ばれたとも、女人高野とも呼ばれた。高代寺の表参道にある町石は丁石ではない。高野山も町石である。平成28年5月23日歩む会行事で九度山散策で訪れた、慈尊院から根本大塔まで180基の町石が一町(約109m)ごとにおかれている。
 参道横に八町石があるが字が見えづらい。七町石・高代寺六地蔵・。六町石・五町石・棚田が広がる、山下道への分岐を過ぎる。四町石・三町石・二町石を過ぎ、最初の一町石を過ぎスタ-ト地点の妙見口駅に13.50着く。

 

 歩む会が妙見フィ-ルドを開設したのが1997年暮れであり翌年1月から第1次ツリ-ハウスを建設した。先般「妙見里山倶楽部」が上光が谷実習地を移転するに際し、不要になった椎茸の榾木100本以上譲り受けた。現在上光が谷実習地は本日ガイドの清水さん達の「トンボ池」としての活動拠点となっている。実習地の下からは道路が整備され石垣が組まれている。
 
 幸いにも雨に合わず、また清水さんから懇切丁寧な解説を頂き、今まで知らなかった妙見の里山の歴史が理解できた、感謝・感謝。

(KT記)

 

f:id:aramah:20050503102715j:plain